現代備忘録(仮)

どこかの誰かにとってはきっと有益であろうと思われる記事を書いていきたいです。

大学院を中退しようとした話

私はかつて、大学院の修士課程に在籍していました。しかし、日々のゼミや研究経過報告で指導教官から執拗に怒鳴られ続け、精神的にうつ状態になりつぶれてしまいました。研究はもちろん日常生活すらままならなくなり、中退を決意しました。

この記事は、私自身の経験をただ書いたものです。同じように苦しんでいる院生の方と共有・共感したく、公開しました。

学部生のころ
私はもともと勉強自体は好きでした。B4のとき、希望通りの研究室への配属が決まりました。指導教官は気分屋で、私と馬は合わない予感はしていましたが、研究内容が自分がもっとも興味のある内容だったため、深くは気にしていませんでした。

その後、より専門的な分野を学びたい気持ちから大学院への進学を決めました。

大学院に入って感じた違和感
大学院に入ってすぐ、二つの違和感(入学前とのギャップ)を覚えました。

一つ目は、『勉強』と『研究』の違いです。参考書を読んで勉強するのに比べ、研究はある種泥臭く、費やした時間の割にはリターンが少ないように感じられ初めは戸惑いましたが、研究内容や手法は当時としては新しく興味もあったので、それほど苦には感じませんでした。

二つ目は、指導教官からの指導がぐっと厳しくなったことです。学部生よりも院生に対してより厳しい指導を行うことはまだ理解できますが、大声で怒鳴る、本で机を叩くなど、もはや指導を超えた言動が多くなりました。

私が学部生のころは、同じ研究室に修士課程の先輩がいなかったので、これほどまでに滅茶苦茶に厳しいことを事前に把握できていませんでした。なぜか研究室に先輩がいない、後から思えばこれは危険信号でした。

ゼミの最中など、少しでも間違ったことを言えば大声で怒鳴られ、皆の前で延々と説教。指導教官は私の進級や修了を握っているので、逃げることもできません。(当時は視野が狭く、そもそも逃げるという発想に思い至りませんでした。)

精神的疲労とその限界
ついに同期の一人が中退しました。それから少しあとに、もう一人の同期が精神的に不安定になり不登校状態になりました。M2のころには、特に指導教官から強く当たられていたM1の後輩が中退してしまいました。研究室の学生はB4~D3で合わせて7、8人しかいません。

他の研究室に配属された院生で中退した人など一人もいません。指導教官と研究室のメンバで和気あいあいと平和に過ごしている同期の話を聞くたび、なぜうちだけこんなにつらくて厳しいのか、後悔や羨望でぐちゃぐちゃになりました。

私も心身ともにつらく、食事や睡眠もままならなくなり、気胸のような症状が出たり、理由もなく呆然としてアルバイトを無断欠勤してしまうなど、日常生活に支障が出ていました。

M2の冬、修士論文の発表レビューで滅茶苦茶に怒鳴られ、突然限界が来ました。レビューが終わり机で数時間ぼんやりしたのち、ふっと中退を決めました。中退した後のことは何も考えていませんでした。

まず母親に伝えようと電話をしました。母親が電話に出ると同時に、自分でもわけもわからず涙があふれ出し、何も話せないほど泣いてしまいました。翌日、指導教官の部屋に行って中退したい旨伝えると、そこでもやはりぼろぼろと無意識のうちに涙が止まらなくなり、ああもう終わったなあとか、どうしてこうなったんだろうとか、ぐるぐる考えては、ただただ泣きました。

その後
その後のことはあまり覚えていませんが、修士論文の修正や再レビューは何もせず、発表会の本番だけ出て短く発表し、評価は低いものの修了できることになりました。これは憶測ですが、うちの研究室だけで異常に多くの中退者や行方不明者が出ていたため、これ以上の中退者を出すとまずい事情があったのだろうと思います。

結局、発表会以降、逃げるように大学院を去りました。

それから数年経ちますが、いまだに当時のことを思い出すとつらくなります。この一件があってから、何に対しても百パーセントの力で取り込むことができなくなりました。不適切ではありますが、指導教官が早く早くこの世から消えてほしいと本気で願っています。

最後に
私がこの経験から学んだことは三つです。

  • 仕事においては、興味・関心より人間関係を優先するべき。
  • 心身の疲労に注意するべき。精神的疲労は肉体的疲労より百倍重い。
  • 死ぬ前に逃げるべき。取り返しがつかなくなってからではもう遅い。